阿波 馬路城あわ うまじじょう
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築城年代は定かではない。天正4年(1576年)長宗我部元親が三好郡に侵攻したとき、白地城主大西覚養が弟頼包を人質として和睦した。しかし、覚養はすぐさま三好方に寝返ってしまったため、人質となっていた頼包は長宗我部氏の三好郡侵攻の先導を務め、覚養が讃岐国麻城へ逃れたのちは本領を安堵され、馬路城主となった。
馬路城は馬路川の北岸の標高260mの尾根先に築かれていたというが、徳島道建設によって遺構は消滅している。
現在城跡があった付近の袴道が馬路城橋と名付けられ、その脇に西岡城址の石碑がある。