築城年代は定かではないが里見氏によって築かれた。 里見氏は上野国碓氷郡里見郷の発祥で、新田義重の子義俊が里見郷に住んで里見を名乗ったことに始まる。
相模国に逃れた里見義実は三浦氏の援助を受けて、安房国白浜を拠点に勢力をひろげ、房総里見氏の祖となる。里見氏の嫡流は義豊の代で途切れ(前期里見氏)、それ以後は庶流の義尭の系統となる。この義尭以後、稲村城は破棄された。
一般的には義通の子義豊が幼少であった為、後見人として弟実尭が義豊が元服した後も義豊に譲らず、義豊は実尭を自刃させ、実尭の子義尭が父の仇として義豊を討ち、里見氏が庶流の血筋へと替わっていく。
しかし、「さとみ物語」(館山市立博物館)によれば、義豊は既に家督を譲られて成人していたということである。義豊は実尭を殺害し、正木通綱をも滅ぼすと、実尭の子義尭は上総国百首城にたて籠って小田原北条氏の支援を得て義豊を安房から追放、翌年には義豊の軍勢を犬掛けの合戦で討ち取った。
城は国道128号線の南にある丘に築かれている。 東に伸びた尾根先から登ると、土橋の架かる堀切があり、それを越えると細長く伸びた削平地がある。更に堀切を越えると主郭に達する。
主郭には案内板が建ち、東側のみ土塁が残り南西側の虎口付近は櫓台のようで小社が奉られている。 虎口を出て南の尾根に回り込むと堀切があり、南尾根には武者走り状の細い道がついている。それを進むと「正木様」と書かれた社にたどり着く。