築城年代は定かではない。文明6年(1474年)の棟札に山田式部道泰の名が記されている事からこの文明年間(1469年〜1487年)頃の築城と推測され、道泰が下田氏の祖とされる。
天文16年(1547年)蛸の森城主下田駿河守は花熊城主横山氏、徳善城主公文氏と結んで長宗我部国親と戦ったが、長宗我部氏の家臣久武肥後・福留隼人等の軍勢に攻められ下田駿河守は弟七郎右衛門とともに討死したという。
蛸の森城は下田土居城の南の山塊にある標高147mの所に築かれている。
主郭は山頂にあり、東西に長く西端が櫓台となっている。主郭を取り囲むように二の段があり、主郭の櫓台脇から二の段へ通路があり、そのまま左へ折れ、更に右に折れて三の段に至る。この道が大手と思われる。
東の尾根は一条の堀切、北の尾根には二重の堀切、西の尾根には二重もしくは三重の堀切が設けられている。北と西の堀切は鋭く堀込まれ若干崩落しているがそれでも尚見事な状態で残っている。
稲生と十市を結ぶ新しくできた蛸の森トンネルの南口から山に入った。ここから畑の間を抜けて谷間にそって尾根上まで登る。尾根上に達すると山道があり、西へ進んで行くと堀切に至る。
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