築城年代は定かではない。
栗山城主細川宗桃の二男頼定が池豊前守頼定と名乗って城主となった。天文年間(1532年〜1555年)に長宗我部国親の勢力が迫り池頼定はこれに降ろうとしたが家臣に留められた。国親は岩松七郎経重がいる限り細川氏を攻めることができないと一計を案じ、中島大和の計略により池万五郎を内応させ、岩松七郎を討たせたため、栗山城と池城を容易に陥落させたという。池氏は頼定の子頼和に国親の娘を嫁がせることで和議が整い、以後長宗我部氏に従った。
文禄2年(1593年)頼和と国親の娘が不和となり、頼和に謀叛の疑いが起こったため、頼和は長宗我部元親の命で仁井田で自刃させられた。
池城は県立池公園の北にある丘陵の南端に築かれている。北尾根部分は土取によって消滅している。
主郭は南端の最高所にあり、南北に長く北端に櫓台のようなものがあるが、凹みがある。曲輪の中央東側に井戸跡のような円形の凹みがある。虎口は西に二ヶ所、東に一ヶ所ある。西の北虎口は曲輪iiiにの土塁をスロープとしている。西の南虎口は内側に窪地を持つ。東虎口は曲輪iiへと続く虎口でこの辺りには石積を多く見ることができる。
西下の曲輪iiiには近年まで神社があったようで基壇が残されている。またその西下にある曲輪ivとは石段の参道で繋がっていたようで、現在はこれが崩れあたかも登り石垣のような造形になっている。曲輪ivは神社のときの改変が大きく周囲の石積はこのときのもののようである。
主郭から北へ伸びる尾根は主郭下に堀切があり、ここは本来二重堀切であったかもしれない。そこから北へ続く尾根に東側を削平したような曲輪状の地形があるが、東下は東へ向かって緩斜面となり、西上は自然地形のままである。
池公園の駐車場が利用できる。登り口は西の県道376号線沿いにあり、歩道を歩いて行けば登り口の案内板がある。
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