築城年代は定かではない。城主は長宗我部家臣福留氏である。
永禄5年(1562)本山氏攻めで留守にしていた岡豊城に、安芸城主安芸国虎が攻め込んできた時には、福留飛騨守親政と熊谷源助の奮戦によって防ぎ、馬ノ上城主吉田重康が援軍に駆けつけ撃退した。この働きを「福留の荒切り」と呼ばれている。親政は天正5年(1577年)伊予での戦いで戦死した。
親政の子福留隼人儀重は元親が禁酒令を発令した後に、自ら酒樽を城内に持ち入れようとした際、酒樽を砕いて諌言した逸話が有名である。儀重は天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐で豊後戸次川合戦で討死した。
田辺島城は国分川の南岸にある丘陵に築かれている。 現在山上には親政・儀重父子を祀った隼人神社が建っている。
城山は低いが周囲は急峻で、山上は西側がやや高くなっている。