築城年代は定かではないが天正元年(1573年)頃に久武内蔵助によって築かれたと云われる。
松尾城の中村越前守信義が元亀2年(1571年)に長宗我部元親に降ると、元親の重臣久武内蔵助が松尾城主となったが、城内の水不足を嫌い向かいの山に築いたのが佐川城である。
関が原合戦によって長宗我部氏が改易となり、変わって山内一豊が土佐へ入国すると、その重臣深尾和泉守重良が一万石を賜って佐川城主となった。しかし、元和の一国一城令によって佐川城は廃城となり、東麓に土居屋敷を構えて明治まで続いた。
佐川城は佐川駅の南西に聳える標高200.7mの古城山に築かれている。現在は山腹部が牧野公園となっている。
佐川城の本丸は標高200.7mの山頂部であるが、城域は広く北山麓にある青源寺を囲むように東西に伸びた尾根に曲輪を展開している。青源寺は深尾氏の菩提寺であるが、深尾氏の土居は東麓に築かれている。
主郭部は堀切を挟んで南北二郭で南が主郭と思われる。この曲輪の間は木橋で繋がっていたのではなかろうか。北の曲輪の東側面にはこの城が深尾氏の時代に改修されたと思われる高石垣が残されている。
主郭部から北山腹へ虎口から通路が伸びているが、北山腹は公園化と重機で切り開いた作業林道によって改変されており、本来の通路がわからなくなっているのが残念である。北東下から東尾根側に曲輪は続いており、尾根には堀切が残る。
主郭から西へ続く尾根にも曲輪が点在し、峰には小さな砦らしき平坦面や堀切が残る。そして西端部にある西出丸は単郭ながらその周囲に堀切と畝状竪堀を設けており、この部分だけ突出して堅牢な作りになっている。
公園の駐車場は北麓にある。かなり山上まで車で登っていくことも可能であるが、西出丸からそのまま下山すると青源寺の所に出ることができるので、この場合は下から歩いた方が賢明である。
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