築城年代は定かではないが津野氏によって築かれたと云われる。 津野氏は藤原仲平の子山内蔵人経高が伊予より土佐に入り津野山を本拠として津野氏を名乗ったことに始まると云う。
津野氏は土佐七雄の一人に数えられる勢力を誇っていたが、永正14年(1517年)津野元実は一条氏の家臣戸波城の福井玄蕃を攻めて敗れ討死した。
これによって津野氏の勢力は衰退し、天文年間(1532年〜1555年)には一条氏に降った。元亀2年(1571年)頃になると勢力を拡大していた長宗我部元親の三男親忠を養子に迎えその支配化に入った。
津野親忠は長宗我部元親が豊臣秀吉の四国征伐により降伏し、土佐一国を安堵されると秀吉の元に人質となって大坂に送られた。豊臣秀吉による九州征伐で元親の嫡子信親が討死すると、家督相続争いに巻き込まれ、慶長4年(1599年)には元親によって岩村に幽閉された。長宗我部盛親が関ヶ原合戦で西軍について敗れると、親忠は親しかった藤堂高虎を通じて徳川家康に長宗我部家の存続を願い出ていたが、盛親によって殺害された。
姫野々城は新荘川の北岸にある標高196mの山頂に築かれており、現在は城山公園として遊歩道が整備されている。曲輪の規模は非常に小さいが、連続した堀切や竪堀群、岩盤を削った切岸など見どころが多い。
主郭は東西に長い曲輪I1の周囲を帯曲輪が囲繞しているが、I2の部分がI3より一段高くなっており、現在の遊歩道が接続している部分が一番低い。
主郭から東へ伸びた尾根には東本城と呼ばれる曲輪群IIがある。この部分はピークにある曲輪II1と西側の堀切に面した部分の曲輪II2で構成している。主郭部ほどではないが、この曲輪の側面にも竪堀群がある。
主郭から南へ伸びた尾根は堀切で区画されているが、その間に平場と表記された緩斜面尾根III、IV、Vなどがあり、曲輪として機能していた可能性がある。
主郭部Iは西尾根、東尾根ともに五重堀切で、南も三重堀切+二重堀切で五重の堀切、曲輪群IIから東へ伸びた尾根も五重堀切になっており、偶然かどうかはわからないがすべて五重である。
主郭部の周囲は竪堀で埋め尽くされており北側は現在でも見やすい。南の竪堀は長く堀切から伸びる竪堀と連動して谷下のほうまで続いている。
車の場合は南尾根にある白雲神社まで行くことができ、駐車場とトイレがある。
徒歩の場合は「津野町総合保健福祉センター里楽」の北側に白雲神社参道入口がある。
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