築城年代は定かではない。 南北朝時代には北朝方の佐伯経貞(堅田小三郎)の居城であったといわれる。
戦国時代には津野氏の支城であったが、津野氏は一条氏に降り、さらに長宗我部氏に降って、長宗我部氏の番城になったという。
岡本城は新荘小学校の北側に聳える標高169mの山に築かれている。現在主郭部には神社が祀られているが、登山道は崩れて道は不明瞭になっている。
岡本城は大きく3つの曲輪群で構成されている。
中心となるのは曲輪群Iで、最高所のI1と神社などが祀られた広いI2からなる。この主郭部の周囲を多重堀切と畝状竪堀群を配置して固めており岩盤を削った遺構が目を引く。畝状竪堀群8のあたりは竪堀というより竪土塁といったほうが適切な様相であるが、土塁の場合は土を盛ることができるが、岩盤の場合は削ることしかできないため、この岩盤の竪土塁は盛ったものではなく周囲を削り込んだものであることがわかる。
西の曲輪群IIは主郭部Iと比べると曲輪の加工は甘い。II1に鉄塔がたっており以前の状況はわかりないが、一部残存土と思われるものが残っており、それから推測されると鉄塔建設によってかなり削り込まれていると思われる。
曲輪群IIも各尾根を堀切で遮断するが明確な竪堀はなく、堀切4の上部に竪堀状地形が確認できる程度である。
主郭部から東へ伸びた尾根の先に小規模な曲輪IIIがある。削平は甘いが、東の尾根先に二条の堀切、南にも二条の堀切があるとこから曲輪であったのは確実で、主郭側とは四重堀切で切り離されている。
南麓にある新荘小学校の東側の道路を山に向けて進むと谷間に流れる沢があり、その脇を登山道が続いている。
沢の西側の道を登ると曲輪IとIIの鞍部、右側の道を登ると曲輪Iに至るが、現在どちらの道も途中で崩れて不明瞭になっている。
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