築城年代は定かではないが片岡氏によって築かれたと云われる。 片岡氏の祖は詳らかではないが上野国片岡郷より土佐に来て土着したとも云われる。
片岡氏は黒岩城や片岡城などを居城としており、元亀2年(1571年)片岡城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと云われる。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で片岡光綱は伊予の金子城主金子備後守の援軍として伊予へ赴き小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
また、片岡光綱の子光政は豊臣秀吉による九州征伐で豊後国戸次川で島津家久の軍勢と戦って討死した。
片岡城は片岡集落の北、仁淀川に流れ込む支流に向かって南西に伸びた山腹に築かれている。現在は神社境内で片岡公園として整備されている。
主郭は神社境内となっている所で北側が一段高くなっているものの、曲輪というよりは見張り台や高土塁といった感じになっている。この主郭部の背後に巨大な空堀を設けており、西は西の谷へ、南は山腹を竪堀として伸ばしており、城域を完全に背後の山から切り離している。
主郭から南下に降ると二段の曲輪があり、竪堀のような参道が延びている。この脇に二条の深い竪堀が西の谷底に伸びている。また竪堀は主郭の北西山腹にもあり、この部分も急斜面ながら連続竪堀を入れている。
山腹に片岡氏の祈祷寺であった妙福寺があり、現在無住であるが、その境内に城主片岡光綱の墓が残されている。
山腹にある妙福寺まで車で行くことができる(地図)。城跡へはここから西下にある民家まで下り、その脇の小道を登っていけば主郭に達する。
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