詳細不明。三宮氏の居城とされる。
三宮氏は南北朝時代に北朝方として活躍した三宮頼国、実綱がいる。
南北朝時代の三宮氏との繋がりは不明ながら、戦国時代には長宗我部氏に従った三宮氏が居た。『南路志』にある「香美郡上田村百姓弁右衛門所蔵三宮家譜」によれば、三宮平左衛門が長宗我部氏に従って阿波勝瑞城合戦、伊予深田合戦で手柄を上げ、豊後戸次川合戦で討死したという。
葛懸城は日下駅の北東、標高162mの山に築かれている。北尾根の鉄塔まで歩きやすい道があるが、その先は薮になっている部分が多い。
主郭部は東西に長い山頂部に築かれた曲輪群で、西端最高所に主郭Iがあり、東に一段下がって曲輪II、主郭の西下に腰曲輪IIIを配している。
主郭Iは東西に長く概ね土塁が巡り土塁の一部には石積も確認できる。南西隅付近は一段高く塚状地形があり石も積まれているが、このあたりは後世の改変のように見える。虎口は西中央に曲輪IIIに繋がる山道があり、東端南側に曲輪IIに繋がる山道もある。また東端北側には土塁がやや内折れして外側に小規模な空間Aを作り出している部分があり、虎口に関連しそうだが道は接続しておらず機能は不明である。
曲輪IIも東西に長い曲輪で北辺に土塁がある。やや東に傾斜しており、南東部に一部石積がある。
腰曲輪IIIは南北に細長い曲輪で北端に土塁があり、その外側には岩盤を削った畝状竪堀群2がある。
主郭部の西から南にかけてはかなりの急斜面で容易には登れない。このため北側に高い切岸を設け、北の尾根続きを多重堀切1で遮断し、その両脇に畝状竪堀群2、3を設けている。畝状竪堀群は岩盤を削り込んで作りだしており、東側は薮に埋もれて見づらいが、西側は比較的容易に見ることができる。
曲輪IIの東端から北東の尾根に続く部分には横堀から竪堀に変化する堀4を設けている。
北東の山腹には曲輪IVとVがある。曲輪IVはやや北に傾斜する緩斜面で西側に土塁がある他は北から東にかけて自然傾斜となる。北は下方に段地形があるが、後世の改変のように見える。
曲輪Vは西側が上下二段、東の突き出した部分がやや高くなるが、ほぼ自然の緩斜面である。しかし東に下る尾根に堀切5を設けていることから、この部分も曲輪として利用されていたことは確実である。
大手筋は不明であるが、地形や縄張などを考慮すると北東の谷筋であろうか。
山の北側にゴルフ場に続く車道があり、途中に造成中の場所がある。この向かいのカーブミラーのところから鉄塔に続く整備道の入口がある。現状、入口近くの道路の余白に駐車可能。
最寄り駅(直線距離)