築城年代は定かではないが南北朝時代に須知景光によって築かれたと云われる。 須知氏は天永2年(1110年)須知慶吉が源為義に従って功があり、近江国周智郡から丹波国船井郡へ移ったのが始まりという。
観応3年・正平7年(1352年)丹波守護代荻野朝忠に属した中津川小次郎秀家の軍勢によって須知城は落城している『遠山家文書』。
延徳元(1489年)須知氏や荻野氏・久下氏などの有力国人が一揆を起こして須知城などに立て籠もったが落城、しかし、翌延徳2年にも再び位田城と須知城に分かれて籠城している。
天正7年(1579年)須知城は明智光秀によって攻撃されて落城、須知氏は滅亡した。
須知城は京都縦貫道丹波icの南東に聳える標高384mの山に築かれている。現在は町指定史跡となり登山道が整備されている。
須知城は山頂から東西に伸びる尾根に曲輪を配しており、東西おおよそ300m程の規模がある。主郭部は石垣造りに改修され、主郭背後の高石垣は鈍角で四面を繋ぐ石垣となっており最大の見所である。
主郭は山頂にあり、東背後に高石垣を用い、西に虎口を開く。虎口は石塁で固められ折れがある。その西下の曲輪も西端南側に虎口を開きこちらも石垣を用いている。
主郭の東下に堀切があり、その先はわずかに石積が確認できる程度で、切岸と土塁の付いた曲輪が続いている。
玉雲寺、琴滝を目指して行く。玉雲寺の所に車を駐め、城山側の農道の上にある道を北へ歩いて行くと、童の石像が置いてある。この先に山へ登っていく道が付いており、これが登山道(地図)。
最寄り駅(直線距離)