築城年代は定かではないか南北朝時代に蜷川親朝によって築かれた云われる。 蜷川氏は室町幕府の政所執事であった伊勢氏の被官で、政所代の要職に就いていた。蜷川親心の三男親朝が船井郡桐野河内村に下向して蜷川城を構えたのが始まりとされる。また、本家は越中国新川郡蜷川庄の蜷川館を構えていた。
蜷川氏は蜷川城主として代々続き、丹波国が織田の部将明智光秀の所領となると蜷川氏もまた明智氏に従った。天正10年(1582年)山崎の合戦で明智光秀が羽柴秀吉に敗れたのちも蜷川城主として続いたが、元和5年(1619年)小出吉親が園部に入部して園部城を築くと、寛永年(1636年)に蜷川城は廃城となった。
蜷川城は園部icの東、船岡駅の南に聳える標高320.3mの山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり、中央に南北に長い土壇があり、それを囲むように大きな曲輪が巡る。北西側は土塁と空堀が入っていて曲輪の内部が区画され、南には虎口が付いている。
南尾根には一段腰曲輪があり、その下に堀切が付く。西尾根も同様に一段腰曲輪があり、南の土塁の脇に虎口がある。さらに西へ降りると土橋の架かる浅い堀切がある。
北尾根は腰曲輪の先に小さな段が付いた北曲輪群があり、そこから北東の蟠根寺方面に伸びる尾根に浅い堀切が付いている。
整備された道は付いていないが、北の太鼓山城からの尾根道が歩きやすい。北の太鼓山城から蜷川城を経て西の千妻城へ降りるルートで歩いた。
最寄り駅(直線距離)