天正2年(1574年)南摩秀村によって築かれたとも云われるが定かではない。下南摩は高木讃岐規衡の所領であったが、佐野盛綱の家臣赤見広孝が入り、後に南摩氏を称した。
広孝の孫にあたる南摩十郎秀村が天正2年(1574年)に滝野山に築いたのが下南摩城と云われる。南摩氏は鹿沼城の壬生氏に従ったが、天正18年(1590年)壬生氏とともに滅亡した。
下南摩城は南摩小学校の北背後に聳える標高225mの城山に築かれている。現在は山頂まで登山道が整備されている。
下南摩城は北の最高所にある北曲輪と南山腹にある南曲輪から成る。北曲輪の方が高いところにあるが、南曲輪のほうが技巧的で土木量も多く、北曲輪より後の時代に築かれたものかもしれない。
北曲輪は南北に長い曲輪で南は堀切があり、その先は自然地形が続く。北西下に土塁が付いた腰曲輪があり、その下方に空堀が残る。また東山腹に広大な二段の曲輪があり、南端から東へ竪堀、南へは帯曲輪状の通路が続いている。
南曲輪は土塁が付いた曲輪を中心に北は巨大な堀切が三条、堀切は西へ竪堀から横堀へと長く伸びている。西山腹には竪堀と横堀が付いた居館のような広い曲輪群がある。
南麓に招魂社があり、その参道入口に駐車場がある(地図)。ここから参道を登っていく道が登山道になっている。
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