築城年代は定かではないが南摩氏によって築かれた。南摩氏は佐野盛綱の子郷綱を祖とする。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原北条攻めでは南摩綱善が小田原城に籠城した。北条氏降伏後は所領を没収され、綱善は南摩の地で没して広厳寺に葬られた。南摩氏の子孫は磐城平の鳥居氏の後、会津の保科氏(会津松平)に仕官して幕末まで続いたという。
南摩城は広厳寺の北背後の山に築かれている。
主郭は山頂I1で細長い楕円形で北端に小規模な土塁、南端に虎口1を開く。主郭の周囲には帯曲輪I2が巡り、一部土塁がついて横堀状になるが、基本的には曲輪として機能していたと考えられる。主郭I1の虎口はこのI2の土塁に木橋を掛けて入っていたようである。
主郭から南東に伸びる尾根には小規模な腰曲輪I3、I4があり、その先に小規模な堀切4で遮断する。I3、I4を経由する山道はそのまま南尾根に続くが、その先に土塁で挟み込むような形状の虎口3を開く。虎口の外側は小規模な段加工を伴う緩斜面尾根が続くが、南端に堀切1が確認できる。
主郭から北西に伸びる尾根は大規模な二重堀切6で遮断するが、内側の堀切の下方は曲輪I5に接続する。I5の北側には虎口2があり、対岸の土塁には木橋を掛けていたと思われる張出があることからここも木橋で接続していたと推測される。
北山腹には方形に加工した曲輪IIがある。この曲輪は削平が甘く傾斜するが、北端には堀切12、西側面も切岸加工してあり、作業林道で破壊されているためはっきりとしないが、北側は横堀になっていた可能性がある。
主郭部から北西に伸びた尾根には堀切、横堀で区画された曲輪IV、V、VI、VIIの4つの曲輪が連なる。いずれも削平は甘く自然地形を多く残すが、すべて西側を意識して土塁や堀切を設け、さらに南より北を意識して切岸、堀を設けている。このため南側は加工が甘く、堀切からの竪堀も伸びずに虎口、通路として開口する部分も南側にある。
この城は主郭部I1、I2から南の曲輪IIIが初めの頃に築かれ、後の改修によって北の曲輪IIや、西尾根の曲輪IVからVIIまでが増築されたものと考えられる。
整備された道はない。南東の尾根先近く、南側に共同墓地があるが、その奥のあたりから尾根に上がり、そこから登った。比較的歩きやすい尾根が続いている。
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