築城年代は定かではないが室町時代に、管領細川頼元の家臣奈良元安が、宇多津聖通寺城の支城として亀山に築いたのがはじまりと云われる。
慶長2年(1597年)に讃岐一国の領主となった生駒親正が築城に着手し、同7年に完成した。一国一城令により廃城となるが、寛永14年(1637年)の生駒騒動により高松城主生駒高俊が寛永17年(1640年)出羽国矢島へ転封となると、寛永18年(1641)肥後国富岡より山崎家治が丸亀藩五万石で入封した。
山崎氏は家治・俊家・治頼と三代続いたが、万治元年(1658年)治頼が嗣子なく夭折し改易となった。しかし、山崎氏は叔父の豊治が五千石を安堵されて家名存続が許され、備中国成羽へ移っている。
山崎氏に代わって播磨国龍野より京極高知が六万石で入封、この京極氏の時代に丸亀城が完成した。寛文2年(1662年)京極高豊が家督を継ぐと、高房に三千石を分与し五万七千石となる。寛文4年(1664年)千四百石の加増を受けて五万八千四百石となり、翌5年に高房が没して所領が返還され、六万千四百石となった。元禄7年(1694年)京極高或が家督を継ぐと父高豊の遺言により異母兄高通に一万石を分与し多度津藩が起こり、以後五万一千石余りの大名として明治に至る。
丸亀城は標高66.5mの亀山を中心として築かれた平山城で、高石垣の上に天守が現存する他、大手一ノ門・二ノ門、番所・長屋・藩主玄関先御門、土塀が現存している。
丸亀城は山頂西側に本丸、東に二の丸、それを取り巻くように三ノ丸、さらに山下曲輪を配し内堀を巡らせている。北に大手、南を搦手とし、大手の北側は石垣が中心であるが、南の搦手は土塁が中心で、門跡の部分のみ石垣を用いている。
三ノ丸・二ノ丸・本丸は総石垣で三ノ丸の高石垣は圧巻の規模である。特に北西隅の屏風折れの高石垣になっている。
天守(現存 天守)
一の門(現存 櫓門)
二の門(現存 城門)
藩主玄関先御門(現存 城門)
番所長屋(現存 長屋)
丸亀市の中心に位置し、駐車場は西側にある市立資料館または北の市民広場の辺りにも無料駐車場がある。天守内部のみ有料で、亀山公園内は無料で散策することができる。
最寄り駅(直線距離)