築城年代は定かではないが貞治年間(1362年〜1368年)香川氏によって築かれたと云われる。 香川氏は鎌倉権五郎景政を祖とし、相模国香川を発祥として香川氏を称したことに始まる。讃岐の香川氏は細川氏に従って白峰合戦で功を挙げ、讃岐に入部して多度津本台山に居を構え、天霧城を詰城として築いたという。
香川氏は細川氏の四天王の一人に数えられ、西讃岐の守護代として西讃岐六郡を治めた。
天正6年(1578年)土佐の長宗我部元親が讃岐へ侵攻し、藤目城や本篠城などが攻め落とされると、香川信景は長宗我部市は和議を結び、元親の次男親和を養子に迎えて家督を譲った。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐によって長宗我部氏が敗れると、讃岐は秀吉の家臣の所領となり香川氏は改易となった。これによって香川信景は土佐へ退き、天霧城主香川氏は滅亡した。
天霧城は標高382mの天霧山に築かれている。現在は国指定史跡となり登山道が整備されている。
天霧城は天霧山山頂を主郭とし、そこから伸びる尾根に曲輪を連ねた山城で、約1km程の城域を誇る巨大な山城である。ただ残念ながら主郭の東側一帯が土取によって山容が大きく変わり、北東尾根の一部の遺構はすでに消滅している。
巨大な山城ながら戦国時代末期に改修された山城は石積や枡形虎口などを備えている。ただ、急峻な山を利用しているが為に、各峰に曲輪群が点在する形になっている。
主郭は山頂にあり、北に向かって二郭、三郭、外郭などの名称を持つ曲輪群がある。山は急峻であるが、西側には石積が点在して残っている。また城内唯一の明瞭な堀切が外郭との間にあり、そこから続く西の山腹には井戸が残っている。
北へ伸びる尾根を下ると所々に広い段曲輪があり、枡形を備えた曲輪も残る。尾根の途中から北と東へ分かれており、北端は「馬連祠」のある曲輪で、東尾根は岩がある尾根先まで曲輪が連なっている。
主郭の南西には「隠砦」とある曲輪とその手前にも土塁や虎口が付いた曲輪群が続いている。
登山道は弥谷寺から登るのが一般的で、本堂へ登って行くと天霧城への道標が出ている。
弥谷寺には香川氏累代の墓が残されている。
最寄り駅(直線距離)