築城年代は定かではないが財田氏によって築かれたと云われる。
南北朝時代の建武4年・延元2年(1337年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦った。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していた。 長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまう。天正6年(1578年)土佐軍は五千の兵を率いて本篠城を取り囲んだ。籠城する兵は財田常久をはじめわずか二百であったという。常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれた。
その後は長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となったが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となった。
本篠城は本篠集落の南東に聳える標高200m程の山に築かれている。
主郭は山頂にあり南北に長く東側に土塁が残る。主郭を取り囲むように帯曲輪が巡っている。南の尾根は深い堀切で遮断し、北の尾根にも土橋の架かる堀切がある。
本篠の集落には財田和泉守常久の墓と伝える五輪塔がある。この五輪塔は本篠城へ向かう道の途中に「財田和泉守常久の墓」の道標がある。この道を下って道なりに進むと車道は すぐに行き止まりとなるが、その民家の裏側の畑脇に御堂があり、この中にある。 (地図)
城山の北麓に案内板と石碑があり、その脇から山道が主郭へ通じている。
最寄り駅(直線距離)