築城年代は定かではないが治承年間(1177年〜1181年)羽床資高によって築かれたと云われる。
羽床氏は讃岐藤家の嫡流であったが、承久の乱で後鳥羽上皇に組みして敗れ、その地位を勝賀城の香西氏に奪われた。
天正7年(1579年)長宗我部氏が讃岐に侵攻してくると八度の合戦の末籠城となり、長宗我部元親の使者としてやって来た天霧城主香川信景の説得により降伏開城、羽床資載はそれ以降長宗我部氏に従って各地を転戦した。 天正10年(1582年)資載は十河城攻めの陣中で病死すると、人質となっていた資吉が家督を継いだ。
天正14年(1586年)豊後の大友氏を救援するため、秀吉は仙石秀久を軍監に任命して長宗我部元親、十河存保らの軍勢を向かわせた。この中に羽床資吉も居たが、秀吉軍は戸次川合戦で島津家久率いる島津軍に大敗を喫し、長宗我部信親、十河存保らとともに羽床資吉も討死、羽床氏は滅亡した。
羽床城は本法寺の北西にある微丘陵に築かれている。本丸と二の丸はともに分厚い土塁を用いており、北の二の丸と南の本丸の間は平入の虎口がある。北の二の丸は北端に羽床氏を祀った神社があり、この部分が櫓台になっている。この二つの曲輪が整備されており、周囲にはさらに曲輪群が拡がっているが、墓地や竹林となっている。
本法寺は天文年間(1532年〜1555年)に羽床伊豆守資載の内室キヌによって建立された寺院で、境内にはキヌの墓碑が移されている。
城山の南側に登山口の道標が付いており、入口に小学生の手作の看板が建っている。ここから民家方面に入り、折り返して山上に続く道が付いている。(地図)
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