築城年代は定かではないが、承久年間(1219年〜1222年)承久の乱で軍功のあった香西資村が築城したとも云われる。
天正10年(1582年)長宗我部元親によって攻められ、香西氏は降伏して長宗我部氏の家臣となった。しかし天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で長宗我部氏は敗れ、香西氏もまた野に降った。
勝賀城は標高364.1mの勝賀山に築かれている。現在は登山道が整備されている。
勝賀城は山頂部に主郭があり、そこから北へ伸びたる尾根と北西側山腹に曲輪を配している。城域は広いが、主郭部は近世城館のような整った縄張りで横矢や虎口が発達しているのに対し、北尾根や北西山腹の曲輪群などは低い段曲輪構造で削平も甘く、これらの部分は改修されず古い遺構のままのようである。
山頂部にある主郭部は近世城館の縄張りで、横矢の掛かる折れを伴う土塁囲みの曲輪となる。主郭もまた横矢の掛かる土塁囲みとなり、北と東に虎口を開く。北は綺麗な食い違い虎口、東は北側が内側へ折れ、南は櫓台状に幅広の土塁となっている。
主郭の北側の曲輪は外側の土塁の内側に石を並べ、北西側には虎口があり、虎口の外側に天然の大石を用いている。南尾根の虎口はコの字に設けた土塁の脇から入る構造で、現在は藪となっている。ここから入るとそのまま土塁沿いに主郭の西下を北上する形で主郭部の北側へ回っていたようである。
大手はおそらく北尾根側からで、こちらは曲輪の東端部を南下し、途中堀切や細く削り残したスロープを通って曲輪内に入る。そのまま進むと主郭の東虎口へ繋がる。
登山道は各方面からあるが、車の場合、標高180m付近まで車で登ることができ、そこに3台くらいの駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)