築城年代は定かではないが大永年間に蒲生定秀によって築かれたと云われる。
永禄11年(1568年)織田信長による観音寺城攻めで、蒲生賢秀は中野城に籠城したが伊勢国神戸友盛の仲介により人質をだして信長に降った。この時人質として出されたのが後の蒲生氏郷である。
本能寺の変で信長が討たれた時、蒲生賢秀は安土城二の丸を預かっていたが、その悲報を聞いた賢秀と氏郷は信長の妻子を中野城へ移し光秀の誘いに応じなかった。
天正12年(1584年)蒲生氏郷は伊勢国松坂へ転封となり、その後は田中吉政、長束正家が城代となり、慶長8年(1603年)廃城となった。
中野城は日野川に面した段丘に築かれていた。城の北側は宅地、南側は日野ダムなどとなって現在残されているのは本丸の一部の土塁と空堀のみである。
凉橋神社や稲荷神社が建つ一段小高い土壇が本丸の北側の土塁の一部で、その外側に大きな空堀が残る。西の道路に面して井戸があり、蒲生氏郷の産湯と伝えられるが、これが本丸の井戸である。