築城年代は定かではないが建武2年(1335年)中野左衛門尉清信が砦を築いたことに始まるとされる。
文亀年間(1501年〜1504年)頃に蒲生秀行が音羽城の支城として整備し、家臣の武村伯耆守重綱を置いたという。
大永3年(1523年)蒲生高郷との争いに敗れた蒲生兵衛尉秀紀が音羽城を退去して鎌掛城に入り、音羽城は廃城、大永5年(1525年)には秀紀も毒殺された。
その後、中野城主であった蒲生賢秀が嫡男の蒲生賦秀(のちに氏郷)に家督を譲った際、隠居して山屋敷に入ったという。
廃城年代は定かではないが、天正13年(1585年)と文禄2年(1593年)説がある。
鎌掛城は北砂川の南岸に聳える標高372mの城山山頂に築かれている。整備された登山道はなさそうだが、遺構は良く残っており内折れ土塁のある虎口や石組み井戸など見応えのある城である。
鎌掛城は山頂にある主郭から北東方向に伸びた東西両尾根に曲輪が配されている。西北西に伸びる尾根の麓には山屋敷と呼ばれる土塁や堀の残る居館跡が残り、こちらが大手のような感じもするのだが、この尾根には数条の浅い堀切程度しか防御施設がなく、城は明らかに北東方向からの攻撃に備える縄張りとなっている。
主郭は西隅が櫓台状に一段小高くここに三角点がある。東に向かって平段があり、その先は通路が東へ連なり東端の二郭に達する。主郭と二郭の間の通路は堀底道であるが、主郭側は複雑な地形になっている。
山頂の東端にあるのが二郭で、ここは岩盤を削った土塁が西を除く三方に巡らされており、北西隅に虎口がある。虎口に対して土塁は城内側に折れており、外側の通路は屈折して降りている。内側に曲がった土塁はこの通路を上ってくる敵を正面から迎え撃つようになる。
二郭からの通路を降りた所には周囲に石積が施された井戸がきれいに残っている。ここがちょうど、東西両尾根の間にある谷の付け根にあたる。
西側の尾根は主郭から北北東へ伸びた尾根で、馬蹄形の小段、やや南北に長い曲輪、東西に長い曲輪、広く北側に土塁が付き、東側は大土塁のようにも見える土盛りを残した広い曲輪、そして南北に長い一番下の曲輪と続いている。
東側の尾根は主郭から北東へ伸びた尾根で、二郭下の井戸から谷沿いに降り、そこから通路が続いて尾根に至る。ここには池なのか湧き水なのか、現在でも水たまりがあり、周囲は土塁状になっている。ここから尾根先に向かって広い曲輪が続いている。
県道182号線沿いにある正法寺が目印。ここから屏風岩に向かう道があり、脇道に山屋敷に向かう道標が出ている。 山屋敷から直接城山山頂を目指したので、「屏風岩」がどこにあるのか確認できなかったのだが、尾根にはしっかりとした踏み跡があるので迷うことなく山頂まで行くことはできる。
もう一つのルートが北東側の林道側から入る方法で、県道をそのまま東へ走っていくと南に橋が架かっている。朝は入口がチェーンでロックされていたのだが、帰路は開いていた。ここから少し入ると直ぐに川を渡る橋がある。そこの橋の付け根から山に入って行く道があり、西側の尾根上を目指せば、東側尾根の先端の曲輪に達する。
最寄り駅(直線距離)