康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。
建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。
永禄11年(1568年)佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)には一万四千石を領した。しかし天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡したという。
城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。
日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側はノッペリとした平たい台地となっている。しかし、そのさらに西側には土塁や堀切があり、二の丸、三の丸に相当するような遺構が明確に残されている。一番西側の堀切には土橋が架かっている。愛宕山の南側へもおりてみたが、こちらは竹薮で小削平地、一部に土塁らしきものがあるものの、城の遺構かどうか判断できない。
佐山小学校の東側の道路を北へ向かって進んで行くと、旧甲賀学園の所で右後へ曲る道がある。それを進めば右側に「桝形池」がある。
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