築城年代は定かではないが、嶬峨氏の居城と伝えられる。 嶬峨氏は蒲生氏の支流で、元久元年に観学院領嶬峨庄の下司となって嶬峨氏を称したことに始まる。
嶬峨氏は六角氏に従っていたが、六角氏が滅亡した後は織田氏、豊臣氏に従った。しかし、天正13年(1585年)甲賀破儀によって改易となり滅亡した。
江戸時代になると嶬峨城の東麓に堀田外記の陣屋が置かれた。
嶬峨城は玉泉院の南背後にある比高30m程の丘陵に築かれている。
山上には稲荷神社があるが、その南方に土塁囲みの曲輪があり、ここが主郭である。稲荷神社との間に二重堀切があり、土塁は北と南に開口部がある。東山腹にある広い平段が堀田氏の陣屋跡という。
稲荷神社の参道がある。
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