築城年代は定かではない。永禄年間(1558年〜1570年)の城主は新城備後守で白川結城氏に従っていたが、須賀川二階堂氏に降ったため、永禄3年(1560年)白川結城春綱は家臣の新小萱雅楽守篤綱を大将として新城館を攻めさせた。しかし、援軍で駆け付けた保土原行藤に敗れて敗死してしまった。
新城館は明眼寺から鹿嶋神社一帯に築かれている。明眼寺の辺りにも土塁や空堀があったようであるが、この辺りの遺構は改変されてわかり辛くなっている。少し中に入ると土塁らしき藪が見えるが、宅地の間なのでハッキリと確認できていない。 遺構が良く残るのは北東側の東北新幹線に近い辺りで、宅地の外側に土塁と空堀が確認できる。また、鹿嶋神社付近にも土塁らしき地形が残されている。
案内板は設置されていないようであるが、明眼寺の南の道路を東へ進んだバス停の辺りに「新城館」の標識が建っている。