築城年代は定かではない。鎌倉時代末期の後藤弾正の居城とも伝えられるが定かではない。
戦国時代には作手奥平氏より分かれた名倉奥平貞次がこのあたり一帯を支配し、その居城として整備されたと考えられている。名倉奥平氏2代信光は、のちに戸田加賀守と称して清洲城主となった松平忠吉に従って清須に移ったという。
寺脇城は北の山塊から南へ張り出した麓の丘陵部に築かれており、現在は見学路が整備されている。
主郭は広く北背後を遮断するように高土塁と横堀を設けており、南に虎口を開く。主郭の南側一帯には平段が広がっているが、曲輪としての造成は曖昧である。大手とされる墓地のあたりは方形に削り込まれ、そこから続く大手道は大空堀の堀底を歩くようになっている。
駐車場は南西にある八幡神社前に用意されている。そこから寺脇城への道標が出ており、民家脇の小路を入って登るようになっている。