築城年代は定かではない。
南北朝時代には足助氏の代官菜倉左近蔵人がいて近隣28ヶ村を支配したという。二代右衛門佐伊武には跡継ぎがいなかったため新田氏より孫六兼氏を養子に迎えたため、一時新田氏とも称した。
清水城は道の駅「アグリステーションなぐら」の北西にあり、南西に伸びた尾根上に築かれている。
主郭部は東西二段で南西隅に窪みがあるが虎口ははっきりしない。東背後は堀切で、南下は横堀状になっている。西へ伸びた尾根にも平坦面が広がるが、現在の削平は後世のものと思われ城跡としては不自然である。ただ東西二段でその先が急坂となることから、もともと曲輪があった可能性はある。
城山の南東の谷向かいに城主の墓と伝えられる宝篋印塔がある。
南側の細い道路のところから稲荷神社の参道があり、入口に道標が出ている。付近に駐車場はない。