築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に菅沼定信によって築かれたと云われる。 田峯城主菅沼定信がその支城として築き、一族の菅沼十郎などを城代として置いた。
弘治2年(1556年)には武田の家臣下条信氏に攻められ激戦となったが敗れ、落城した。 元亀2年(1571年)武田氏による三河侵攻では田峯城とともに武田氏に降った。
天正3年(1575年)長篠合戦で敗れた武田勝頼は甲斐へ逃げ帰る途中、田峯城主菅沼定忠の案内により田峯城へ立ち寄ろうとしたが、留守を守る今泉道善などが反逆を起こして城へ入れず、この武節城まで逃れ、梅酢湯を喫し信濃を経由して甲斐へ戻ったと伝えられる。
その後、徳川の家臣酒井忠次によって武節城は攻め落とされ、奥平信昌の所領となったが、天正18年(1590年)徳川家康の関東移封によって奥平氏も移り、廃城となった。
武節城は黒田川と名倉川が合流する地点の南西の丘陵に築かれている。
山頂の主郭は西背後に城山神社が祀られた曲輪(櫓台)があり、北東に向かって二郭、三郭を連ねる。南は大空堀があり、外曲輪へと繋がっている。
国道153号線沿いにある道の駅「どんぐりの里いなぶ」の東側に見える丘陵が城跡で、道の駅の駐車場からよく見えるように「武田勝頼ゆかりの武節城」と大きな看板が出ている。
ここから歩いても良いが、車道がそのまま主郭まで通じている。