築城年代は定かではないが長坂新左衛門によって築かれたと云われる。 やがて岩津へ進出した松平信光が攻略し、岩津城と共に親忠に譲り、親忠は子の乗元へ譲った。 乗元は岩津城主松平親忠の二男で大給城を居城とする大給松平氏の祖となった。
天正3年(1575年)には滝脇の松平乗高に攻められ落城したという。
天正18年(1590年)6代家乗の時に、徳川家康の関東移封に伴い上野国那波へ一万石で転封となり、廃城となった。
城は標高207mの山頂部に築かれており、現在は国指定史跡として綺麗に整備されている。
大給城は岩が多く露出した山頂部を利用し、巨石に石積などを利用してうまく曲輪や城壁を造成している。最高所は主郭部I、IIで中央の石塁で区画する。東の曲輪IIの方が若干高いが、虎口の場所や石塁が内折れしていることなどから曲輪Iが主郭と考えられる。虎口1は外枡形状で、石垣や竪堀を備えている。
大手は東で櫓台を備える虎口を二ヶ所通って曲輪に入る構造である。また、北へ降ると水の手曲輪の方に行くルートがあるが、ここは土塁と竪堀によって遮断されている。
大給城で最大の見所は北尾根に設けられた「水の手曲輪」と呼ばれる曲輪群V部分で、二段の砂防ダムのような石垣による防塁が築かれている。中央が欠損しているのは崩落によるものだろう。
南側にある広い曲輪IVは居館跡とされる。そこから東の堀切1に向かう途中の南側面に畝状竪堀群7がある。
国道301号線沿いに案内があり、城山の南側を通る道路沿いに駐車場がある。ここから峠までいき、山へ入って行くと尾根の所で丁字路になるが、これを右へいった所に「松平乗元の墓」がある。
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