築城年代は定かではないが松平宗家三代松平信光によって築かれたと云われる。 信光が築いて、子の松平光親(野見松平の祖)を城主としたと伝わる。
その後の動向は定かではないが、現在残る遺構は小牧・長久手合戦に備えて大給城とともに改修されたものと推測されている。
大田城は滝川北岸の標高254mの山頂に築かれている。
城は山頂の主郭の東西両端から北へ伸びた尾根に向かって曲輪が築かれており、ちょうどu字状になっている。
主郭は山頂にあって東西に長く、細い空堀で三つの曲輪に区切っている。空堀はいずれも土橋が架かり、中央側に低土塁が付いている。主郭の虎口は西にあり桝形となっている。南北に帯曲輪がついており、石積が一部残る。
西端から北へ伸びる尾根の曲輪群は二郭あって堀切で区画されている。側面には一部石積が残る。北側の曲輪は南の堀切に面して土塁が付いている。
東端から北へ伸びる尾根の曲輪群は主郭の帯曲輪から土橋の架かる堀切を設け、平入の虎口に石積を設けている。この虎口から出るとその先は右に折れて土塁を通って出るようで、歪な空堀が設けられている。さらに北へ降りると道は右へ伸びているが、そこから北側に向かって横堀が伸び、さらに西へ曲って続いている。この横堀が付いた曲輪は西側が切岸加工されておらず、改修途中のように見える。
豊松町歌石にある公園から遊歩道が付いている。
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