慶長5年(1600年)鈴木重次によって築かれた。 鈴木重次は椎城・則定城を居城としてこの地を支配していた則定鈴木氏で、天正18年(1590年)徳川家康に従って関東に移っていたが、関ヶ原合戦後に五百石を領して則定に陣屋を構えた。
重次の長男鈴木正三は関ヶ原合戦では徳川秀忠に従って信濃国上田城の合戦で初陣し、大坂の陣の後、慶長20年(1615年)二百石を領して別家を興した。元和6年(1620年)家督を嫡子重長に譲り出家し、三河に戻って修行を積み、寛永19年(1642年)島原の乱後に天草の代官となった弟鈴木重成の要請で天草に下り天草の復興に尽力した。
鈴木重次の家督は弟重成が継いだ。重成は島原の乱に従軍した後、初代天草の代官となった。重成は天草復興に尽力し年貢半減を幕府に訴え続けたが聞き入れられず、承応2年(1653年)訴状を残して自刃した。家督を継いだ鈴木重辰もその遺志を継いで幕府に訴え続けついに石高が半減された。この尽力に感謝した天草の人々は各地に鈴木塚を築いて祀ったという。
鈴木氏は一千石の旗本として明治まで続いた。
則定陣屋は則定川の北岸にある高台に築かれていた。現在は則定小学校が建っているが、石垣の一部と石積された門坂が残る。