築城年代は定かではないが鎌倉時代初期に足助重長によって築かれたと云われる。 源満政の末裔で浦野重直の子である重長が足助に移り居城としたのが黍生城だといわれ、重長は治承4年(1180年)兄山田重満とともに源行家に加担して美濃国墨俣で平重衡と戦って討死した。
足助氏は二代重秀の時に飯盛城を築いて居城とし八代続いている。
黍生城は足助川の北岸にある標高374.4mの黍生山に築かれている。
単郭の城で主郭は山頂にあり、北東から南西に長い曲輪を設けている。切岸は高く明瞭で、南下に一段削平地がある。堀切は主郭の北下に一条、主郭から南西に伸びた尾根が更に南へ伸びた所に一条残っている。
国道153号線と県道38・県道358の追分交差点を北へ曲る。道はすぐに左カーブとなるがその辺りの右側に黍生城登山口の道標がある。