築城年代は定かではない。則定鈴木氏の城で城主は鈴木十内、鈴木重氏とされる。 則定鈴木氏は矢並一帯から勢力を広げた鈴木氏から分かれた。
則定鈴木氏は徳川家康に従い、天正18年(1590年)小田原討伐の後に関東に移ったが、慶長5年(1600年)則定陣屋を構え、江戸時代は一千石の旗本として明治に至る。
椎城は則定陣屋跡である則定小学校の北の山に築かれており、山頂から南西に張り出した尾根の頂部に築かれている。
北東の尾根は切通となっているが堀切であろう。堀切に面して二の丸があり、そこには「當椎城主鈴木重氏」と刻まれた墓碑が建つ。二の丸は途中南北両側を切り落として細細い通路を設けている。二の丸の南西に空堀を挟んで主郭があり、主郭へは南下の帯曲輪を通って南西側より登るようになっている。
主郭から北、更に地形に沿って西へ伸びた尾根に曲輪があり、ここも途中切り落として細い通路を設けている。この尾根の西下に堀切が一条ある。
則定小学校の上にある鈴木正三史跡公園、もしくは心月院の少し手前から遊歩道が続いている。
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