築城年代は定かでなはいが、応永8年(1401年)に白井長尾氏の家臣によって築かれたのが始まりと伝えられている。
尻高城を居城とした尻高氏は白井城主白井長尾重国の三男重儀を祖とし、応永10年(1403年)に尻高に入部して代々続いた。
永禄年間(1558年~1570年)に上杉謙信が関東侵攻したさいに上杉氏に臣従した諸将を記録した「関東幕注文」に沼田衆として尻高左馬助が登場する。
武田氏の勢力が西上野に及ぶと尻高氏も武田氏に従った。天正10年(1582年)武田氏が滅亡したのちは真田氏に従っていたが、天正17年(1589年)尻高源次郎は加部屋城へ移されたという。
尻高城は標高700mの「ゆうげい」と呼ばれる山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
尻高城は山頂部と南尾根の中腹部に遺構が確認できる。
山頂部は最高所に主郭Iがあり、堀切1を挟んで東に曲輪IIがある。主郭の西端は南に曲がり、その先が曲輪III、さらに段曲輪群IVと続く。いずれも切り立った崖上の細尾根にあり、曲輪も低い段差の小規模な曲輪群が連なる。
主郭から西へ伸びた尾根は小規模な多重堀切群2を経て、次の小ピークの東西両下に堀切3、4が確認できる。小ピークはほぼ自然地形で曲輪とするほどの面積もない。
中腹の遺構は曲輪Vを中心とし、南下に西側を通路として残した竪堀5が確認できる。竪堀5の南側に土塁の高まりが確認できるが、南尾根はほぼ自然地形である。一方南西側には小さな段をともない緩斜面が続いているが遺構ではなさそうである。
登山口は南麓の道路沿いにあり入口に道標があるが駐車スペースはない。その南側の道路に面して案内板が設置されている。
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