築城年代は定かではないが天正10年(1582年)頃に小田原北条氏によって築かれたと云われる。
天正10年(1582年)甲斐の武田氏が滅亡し、織田信長の武将滝川一益が上野一国を与えられたが、その信長も本能寺の変で横死した。滝川一益が上野を引き上げると、北条氏直、徳川家康らが旧武田領に侵攻した。そんな中、真田昌幸ははじめ北条氏に帰属したが、その後徳川方に転じた。
北条氏直は真田の拠点である岩櫃城と沼田城の中間にある中山の地を押さえる為、北条氏邦を向かわせ占拠させた。このとき中山の地に築かれたのが中山城で、北条氏の真田攻めの拠点となった。
北条氏はかつての沼田城主沼田顕泰の子赤見山城守を中山城に置いて守らせた。 その後の動向は定かではないが、天正14年(1586年)に真田方の攻撃により落城、赤見山城守もこのとき討死したと云われるが、実は生き延びていたようだ。
中山城は南へ伸びた台地の南端に築かれている。
中山城は台地の東端に方形区画の本丸を置き、それを囲むように二郭、三郭を巡らし、深い空堀によって区画している。台地の南端には広大な平地があり捨曲輪とされている。
主郭は台地の東端部に位置しているが、こちら側は現状は小さな川が流れている程度で比高も10m程しかなくとても要害には見えない。現在はこちら側から山道が付けられ、本丸まで一直線に登る道が付いている。
主郭はこの東面を除く三方に土塁を設けており、北と南に開口部があり木橋が架かっていたようだ。主郭の北は東西に長い曲輪で、その外側が北東面を覆う横堀になっている。南にも東西に長い曲輪があるが、その西側が土橋になり、先端に土塁が付いている。
国道145号線沿い北側に広い路側帯があり、そこに石碑と案内板が設置されている。車はここに駐めることができ、東側から登る道が付いている。
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