築城年代は定かではないが中山氏によって築かれたと云われる。 中山氏の出自は諸説あるが、武蔵七党の一つ児玉党の阿佐美氏の一族と云われる。
永禄年間(1558年~1570年)頃には中山安芸守がおり、武田氏の勢力が及んでくるとこれに従った。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡して織田信長が本能寺の変で倒れると、真田氏は一時北条氏に属したが、まもなく離反して上杉氏に従った。これにより北条氏が真田氏を攻め、赤見山城守が中山古城を攻め落とした。後に赤見山城守は中山の地を与えられたが、このとき築いたのが中山城であった。
中山古城は標高690mほどの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。以前はヤブの部分も多くあったようであるが、訪れたときには城域全体がきれいに刈られて非常に見学し易かった。
中山古城は谷間を挟み込む東西両尾根に曲輪群を配している。全体的に削平が甘く切岸は谷の内側より外側のほうが明瞭で、外側には犬走が確認できる。
主郭は曲輪Iで東に高土塁を設けて堀切4で区画している。西隅の外側に小段がついてスロープとなっており虎口の可能性がある。西下には曲輪IIがあり、浅くなった堀切3で区画していたようである。さらに下方にも腰曲輪地形があるが、ここも浅い堀切2が確認できる。曲輪IとIIは十分削平されているが、他の尾根は緩斜面が多く残っている。
曲輪IIIは東端に土塁と堀切5、西端は堀切4で主郭と区画するが、曲輪は傾斜している。
曲輪IVは城内最高所で、東端は土塁と犬走から続く堀切8、西は堀切5で区画する。しかし南へ伸びる尾根は自然傾斜し、そのまま曲輪V、VIへと続いている。
南西麓の道路沿いに中山古城への道標がある。民家の前をとおる細い道であるが、そのまま右へ回り込むと墓地があり、このあたりに駐車できる。
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