明応元年(1492年)沼田景久によって築かれたと云われる。 景久は沼田城の西の備えとして築き、二男景秋を城主として入部させ景秋は小川を称した。
2代景祐は素行優れず追放され、弟秀泰が3代城主となった。 秀泰は岡林斎と名乗り沼田七騎の一人として名を馳せた。
秀泰の子景奥が4代城主となると、次第に小田原北条氏が進出、幾度の戦火で景奥の子は幼くして焼死、景奥も大永4年(1524年)落命、これにより跡目を嗣ぐものがなく、城をめぐって北能登守、南将監が不和となる。 そのころ赤松則村の末で赤松捨五郎祐正と名乗る浪人が上方より下って城内に留まるうち、信頼を得て小川可遊斎と名乗り小川家の名跡をついだ。
天正8年(1580年)小田原北条氏と戦いこれを退けた。 しかし、北条氏は再び大軍を派遣し小川城を取り囲み、可遊斎は降伏を願い出るも許されず、越後へ逃亡した。
小川城は上毛高原駅の東にあり、利根川による河岸段丘の東端に築かれている。
現在残るのは本丸部分で、かつて西側には二ノ丸が存在していたが、現在はほとんど遺構がない。本丸は深い空堀によって台地から切り離される構造で、崖端城の典型的な遺構あである。近くの名胡桃城と同様に先端部分には笹曲輪と呼ばれる小さな曲輪がある。
西の山側にある嶽林寺は小川氏を開基とするお寺で、ここに小川城資料室があり小川氏に関する展示がある。また味城山の砦は小川城の詰城とされる。
国道291号線沿いに案内板がある。国道と城跡の間に駐車可能である。
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