寛正年間(1460年〜1466年)に植栗安芸守によって築かれたと云われる。
応仁2年(1468年)植栗安芸守の伯母婿柳沢直安が斎藤行弘に襲われ、この植栗城へ逃れてくるという事件があった。
植栗元吉のとき、岩櫃城斎藤家の老臣大野憲直は岩下城主斎藤憲次に植栗城の植栗元吉を討つよう命じたが、斎藤憲次は元吉と結んで大野憲直を討って大野氏を滅ぼし、岩櫃城主となった。
永禄年間(1558年〜1570年)に武田氏の武将真田幸隆が岩櫃城を攻めたとき、植栗安房守元信は岩櫃方として戦った。その後、植栗氏は真田氏に属したようで、長篠合戦では植栗河内が手傷を負っている。
植栗城は吾妻川南岸の段丘の北端に築かれている。
植栗城は現在畑となっており、周囲よりやや小高くなった曲輪が残り、西から南に掛けて空堀があったようである。城から東へ行った所にある民家の東側に植栗安芸守の碑が残されている。