築城年代は定かではないが観応年間(1350年〜1352年)に秋間氏によって築かれたと云われる。
貞和5年・正平4年(1349年)秋間貞勝が里見兵庫との戦いで敗死すると、秋間氏は安中へ潜み、上杉憲顕が里見兵庫を滅ぼしたのち、秋間氏も内出城へ戻ったという。しかし、文明年間(1469年〜1487年)に秋間氏は大野義衡によって滅ぼされてしまった。
内出城は吾妻川南岸の台地の上に築かれていた。 複郭の平城で、現在は宅地や田畑となっているものの掘り割りなどは比較的良く残っている。
本丸とされるのが北西の隅部にあり、幅広の空堀跡がその周囲を巡っている。この本丸の東から南側を覆うのが二の丸、さらに東へ曲輪が拡がっている。