築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に浦野貞重によって築かれたと云われる。 浦野氏は滋野氏の一族で鎌倉時代に信濃からこの地へ移り、浦戸氏あるいは大戸氏を称したという。
岩櫃城主の斎藤憲広に従っていた浦野重成が武田氏に従うようになると、永禄6年(1563年)斎藤憲広が手子丸城へと攻め寄せたが、武田氏の援軍もあってこれを撃退した。永禄8年(1565年)には武田氏に従って箕輪城の長野氏を攻め、石倉城の守りも固めた。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると上野に侵攻した北条氏によって攻められ、手子丸城は落城した。
手子丸城は大戸の関の東に聳える標高649mの城山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり、ここから北へ伸びた三つの尾根に曲輪を展開する。東へ伸びた尾根にも曲輪群が展開しているが、主郭に比べ切岸は低く、東西両尾根を堀切で遮断するなど、独立性が高く一城別郭となっている。
主郭部は切岸が高く曲輪も広く造成されており、北に向かって段々と続いている。一番西の尾根の先端には大堀切があり、これを降った所にも堀切が一条残っている。この尾根は地元の方に聞いた所、かつて主郭へ登っていた道ということだ。
主郭から東へ伸びた尾根はピーク毎に曲輪があり、北へ向かって段々と曲輪が続いているものの主郭部に比べ切岸は低く、緩斜面になっている部分が多い。東端には圧巻の二重堀切があり、そこから竪堀が長く伸びている。
主郭部の東端から北へ伸びた尾根に鉄塔があり、そこへ到達する林道がある。これを使って行くのが簡単。鉄塔の先が少し藪だが、そこを突破すれば歩きやすい道がある。
この鉄塔への道は県道58号線にある鳩ノ湯温泉の看板が目印。ここから続く林道を少し入ると沢を渡るために二本の板橋が付いている。これを渡った所から登っていけば良い。(地図)
地元の方に聞いた所、以前山頂に祀っていた神社へ登る道を教えて頂いたのだが、これを下山時に利用してみたが、沢には水が流れ、それを迂回する山越が藪になっていてお勧めできない。この道は主郭部の一番西尾根を使っている。
最寄り駅(直線距離)