文禄元年(1592年)に築かれた。文禄の役で渡海した日本軍は釜山周辺の城を攻め落として釜山を占拠すると、毛利輝元、毛利秀元によって釜山倭城とともに釜山子城台倭城も築かれ、それ以降、朝鮮撤退まで日本軍の中心的な城として維持された。
日本軍が撤退したのちは釜山鎮城として再利用された。
釜山子城台倭城は釜山鎮城公園(旧子城台公園)となった丘陵に築かれている。現在は埋め立てられているがかつては海に面した丘陵であった。
公園化による改変もあるが、釜山城よりは石垣の残存は良好である。
山頂部に南北二段の曲輪があり南が主郭となる。主郭には鎮南台が再建されている。虎口は南北両側にある。枡形とはならないが片側が突き出すような虎口になっている。主郭の北西隅、虎口の西側が天守台でかつては一段高かったようである。
主郭の北側に二郭がある。この曲輪も北側は高石垣になっており、見ごたえがある。西側面には登り石垣の一部が残されている。
西に西門、北からも入ることができる。公園内にトイレがあり。
釜山倭城から徒歩移動。