明応3年(1494年)吉田春秀によって築かれたと云われる。 吉田氏は安宅氏の家臣で、明応3年に生馬村の地を吉田春秀に与え要害山城を築かせたという。
安宅本城を居城とした安宅氏は龍松山城を居城とする山本氏との争いに備える為にこの地に城を築いたとされ、明応3年(1494年)に山本主膳守はこの地に兵を送り「馬谷城合戦」と呼ばれる戦いが起こった。
要害山城(馬谷城)は西に突き出した山の先端頂部に築かれており、東を除く三方は急峻な地形となっている。
主郭は山頂にあり、西と東にそれぞれ一段腰曲輪が付く。西の腰曲輪は土塁があり、虎口を開くが、虎口の周囲には石が建てられ、通路には階段、敷石らしきものも確認できる。この虎口から降りて行くと北から西山腹に掛けてびっしりと畝状竪堀群があり、特に西側は起点のコブが大きく明瞭に残っている。
東尾根は三の曲輪の東下の腰曲輪の直下に深い堀切が一条あり、その先の尾根に連続した堀を穿っている。大半は尾根の南半分を遮断した竪堀で、主郭から離れた付近まで続いている。
新道建設中で道が替わる可能性があるが、西の国道42号線から入る道が広い。こちら側から入ると正面に見える山が城山で、突き当たりに熊野古道「←草堂寺・峠の茶屋跡→」が出ており、峠の茶屋方面へ。林道を少し走ると工場があり、その前から遊歩道が付いている。この近くに駐車できるスペースがある。(登山口の地図)
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