築城年代は定かではないが室町時代に内ノ川平兵衛によって築かれたと云われる。 内ノ川は龍松山城主山本主膳守の家臣であった。
文明10年(1478年)の城主は内ノ川修理太夫で、城の四方に四寺を建立した。
天文3年(1534年)畠山稙長が鴻巣城を攻めたが、このときは山本主膳守が兵を送り落城は免れた。
天文10年(1541年)山本氏と小山氏によって攻められ落城したという。
鴻巣城は保呂と内ノ川にまたがる標高95mの山に築かれている。 「和歌山県中世城館跡分布調査報告書」の地図を参考に当初三角点のある標高92.0mの付近に城跡があるものだと思っていたが、この辺りはたいした遺構がなく、標高95mの所に主郭が築かれていた。
主郭は標高95mの山頂で周囲より一段小高くなっている。西尾根に深い一条の堀切があり、その西尾根に二郭がある。二郭は西端が小高く平坦で、東は緩やかな傾斜地になっている。二郭の西尾根は三重の堀切によって遮断してる。
ここまでは確実に城跡であるが、この先にも人工的な遺構が続いている。堀切から西で南西側へ尾根が曲がる部分には周囲に石積(列石)を用いた平段がある。これだけだと畑か何かの跡のようであるが、北西と南の尾根に対して虎口が付いている。この虎口はいずれも右折れで入るようになっている。
南西尾根の標高92.0mの所には三角点があるが、ここにも堀のような溝がある。これはもしかすると古墳かもしれないが、南西尾根にも堀切状の溝を確認することができる。ただいずれにしても曲輪と呼ぶ程の平段がなく、主郭部のようなはっきりとした遺構は見あたらない。
道は付いていないようであるが、尾根上は歩きやすい。 南側の内ノ川にある集合墓地の脇から簡単に登ることができる。
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