築城年代は定かではないが湯川氏によって築かれたと云われる。 湯川氏は甲斐源氏の武田三郎忠長が熊野の賊を平らげて芳養庄を賜り、内羽位に館を構え湯川(湯河)氏を称したことに始まる。
亀山城が築かれたのは貞和4年・正平3年(1348年)頃とも永享11年(1439年)頃とも云われ定かではないが、日高に進出した湯川光春によって築かれたと云われる。
その後代々湯川氏の居城であったが、十一代湯川直光は天文18年(1549年)頃に小松原館を築いた。これは単なる居館ではなく平城であったと云われる。移した理由については「亀山城は寒風の季節は住みにくい」というものであった。
天正13年(1585年)羽柴秀吉が紀州へ侵攻すると、湯川直春は娘婿の手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを望んだが、玉置氏はこれに従わなかった。怒った直春は二百余名で手取城を攻め焼き払った。その後、秀吉の大軍に攻められた湯川氏は城を焼き払って退去し後に和睦する。しかし、天正14年(1586年)湯川直春は羽柴秀長の居城である大和郡山城で没した。一説に謀殺されたとも伝えられる。
亀山城は御坊駅の北に聳える標高117.7mの亀山山頂に築かれている。 現在は公園として整備されている。
主郭は南北二段の曲輪で全体的に土塁が巡っている。虎口は現在の車道となっている南側と北西部にある。北東、南西、南東の各尾根に腰曲輪が付いているが、現状堀切などは確認できない。
亀山の南西山腹に三明寺があり、そこへ向かっていくと丸山中央集会所がある(地図)。この集会所に車を駐める事ができ、そこから道標に従って登っていくと亀山山頂に達する。道は農業用の林道であるが、一般車両は通行できない。
最寄り駅(直線距離)