大永2年(1522年)三好義長によって築かれたと云われる。
紀伊守護職畠山高国が河内にいて留守のとき、阿波の三好義長が紀伊に上陸して小坊師ヶ峰城を築いた。これに対して高国の家臣崎山家正は鞍賀多和城を築いて対峙したという。この合戦では三好方が勝利し、義長は義継に城を守らせ阿波に引き上げたが、その後畠山高国が湯川政春とともに攻めてきたため落城したという。
小坊師ヶ峰城は池田城とも呼ばれ、標高250m程の小坊師峰山頂に築かれている。
城は山頂の主郭を中心として東西南北四方に伸びた尾根に城域が拡がるが、規模はさほど大きくはない。主郭から西下に一段、東下に二段、南下に一段の曲輪があり、それぞれ先端に堀切がある。北尾根はほぼ自然地形の尾根であるが、主郭下に浅い堀切があり、さらに少し離れた場所に堀切もある。その先の北峰にも若干の削平地が残る。堀切は南尾根が立派であるが、東尾根は不明瞭で両側に竪堀として伸びており、西尾根は浅い堀切があるのみである。しかし、南西の谷間にはy字になった竪堀、東尾根の腰曲輪の南北両側には独立した竪堀を設けるなど、側面移動を抑おるように配置しているところは注目すべき点である。
登山道から登り始めるとすぐに「空堀」や「畝堀」と記された看板が建っているが、これは山道の名残りのようで遺構ではない。
南の池田集落側から県道を北へ進んでいくと池のところに池田城への道標が出ている。この入口の先の辺りは道が広く駐車可能である。
もう一つ未確認であるが、普門院の近くから未舗装林道が南尾根に続いているようで、この終点が南堀切の近くになっている。
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