築城年代は定かではないが南北朝時代に玉置大宣によって築かれたと云われる。 玉置氏は大和国十津川地域の出身で、奥州岩城判官の後裔を称す。
南北朝時代に大和国から日高川の上流地域に鶴ヶ城を築き、さらに下流へ降って山崎城の川上兵衛則秋を攻略してこの地域を支配した。
その後は亀山城の湯川氏とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々続いた。 天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州侵攻に対し、亀山城主湯川直春は娘婿である手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを望んだが、玉置氏はこれに従わなかった。怒った直春は二百余名で手取城を攻め焼き払った。
手取城は当田山から谷を挟んで北にある標高171mの城山に築かれている。 主郭一帯は公園として整備され、主郭のすぐ下まで林道が付いて簡単に登ることができる。
和歌山でも規模の大きな中世山城として知られ、東西約500m、南北250m程の規模である。山頂の主郭、南下に二郭、東尾根に東の丸と続くのが主郭部で、堀切を挟んで西にある西の丸辺りまでが公園として整備されている。
主郭から北尾根側には石積があり、四条の堀切によって区画された小郭が続く。 東尾根の東の丸は北側に土塁が付き、東西に長い城内最大の曲輪で、東端下に土塁囲みの曲輪があり、その下方に堀切が二条残る。この東の丸の北斜面は横堀状になっている。
主郭から西尾根に広がる曲輪群は大きな堀切によって遮断され、300m程離れた尾根まで続いているが、この辺りは未整備で堀切を確認しながら歩くのがやっとの状態である。 西端は「古城行道」の石碑のある辺りで、そこから少し西に行った所に西端の堀切がある。
城山の南を走る道沿いに手取城入口の道標が出ている。この林道は舗装された幅2m程の道で東の丸まで続いており、普通車でも十分通行可能である。
しかし、この林道の半分くらいの所から遺構が始まっているので、今回は麓に車を置いて歩いて登ったが、林道の途中に土取場があり、そこに置くことも可能である。
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