寿永2年(1183年)平維盛によって築かれたと云われる。 加賀と越中との国境に位置する倶利伽羅峠はかつての北陸道が通っていた。
寿永2年(1183年)木曽義仲は越中を経由して北陸道を西に京へ向かった。対する平氏は三位中将平維盛を大将としてこれを迎え撃った。十万とも云われる平家の大軍に対して、義仲は松明を角にくくりつけた牛数百頭を放った(火牛の計)。細い峠道に長蛇をなして行軍している平家の軍勢は大混乱となり、将兵と軍馬は地獄谷に折り重なるように落ち、その数は一万数千とも云われた。この戦いに勝利した義仲は京へ上洛することになる。
倶利伽羅城は倶利伽羅峠付近に築かれていたと云われるが、現在は倶利伽羅不動尊や手向神社、倶利伽羅公園などの造成によって遺構を探すことは困難となっている。
「倶利伽羅権現石殿」の辺りは北陸道を見下ろす最高所で、富山県側にある「猿ヶ馬場」は平維盛が本陣を置いた場所とされている。