天正13年(1585年)前田利家によって築かれた。 天正12年(1584年)より前田氏は佐々成政との戦いが始まり、度々戦が行われていた。
天正13年4月(1585年)前田利家は今石動城を築いて加賀国津幡城より弟前田秀継・利秀父子を今石動城に置いた。これに対して佐々成政は、同年5月に神保氏張・佐々平左衛門などが城下に火を放つなど攻め寄せたが、前田氏は撃退している。同年8月には佐々成政は豊臣秀吉に降り、前田秀継は木舟城を居城とした。しかし、同年11月に地震により秀継は没し、家督を継いだ利秀は翌天正14年(1586年)に木舟城より今石動城に居城を移し、城下町を整備した。
文禄2年(1593年)前田利秀が病没すると廃城となり、その後は利秀の旧臣篠島氏が五代続いて今石動の奉行を務めた。
今石動城は小矢部市の中心の北西に聳える標高186mの城山山頂に築かれている。 加賀から倶利伽羅峠を越えて越中に入り平野部に面した城山は、東にる小矢部川を境として越中に侵攻する足掛かりとしては絶好の位置にある。
現在城山山頂付近を越えて行く車道が付いており、簡単に山頂付近まで行くことができるが、展望施設が建っている他は山全体が草に覆われており、遺構の確認は難しい。
「富山県中世城館遺跡総合調査報告書」に掲載されている縄張図では、山頂を中心として北東の二つの尾根と南西に伸びる尾根に無数の削平地が描かれている。
山麓の本行寺の裏には前田利秀の墓所、矢波の高徳寺跡には前田秀継の墓所がある。