築城年代は定かではないが桜井氏によって築かれたと云われる。
永正年間(1504〜1521年)頃、尼子経久は各地の国人・豪族を富田城へ招き寄せたが、阿用城主桜井宗的は出雲国守護京極氏への思いからその命令に従わず、伯耆国羽衣石城主南条宗勝らと通じて軍備を整えた。経久は嫡子尼子政久を大将として阿用城を攻めさせた。しかし、阿用城は堅城で思うように攻める事ができず、二重三重に取り巻いて兵糧攻めの長期戦となると、笛の名手でもあった政久は陣中において笛を吹いて時を過ごしていた。これを知った桜井宗的は夜陰に紛れて城を抜け出し、その笛の音を標的として弓を放つと矢は政久の喉を貫いて政久は没した。経久は政久の死を知ると激しく怒り、尼子国久を大将とし尼子興久・亀井安綱・宇山飛騨守・牛尾遠江守・横道・森脇・川副らを付けて阿用城を攻めたて、宗的を討ち取り城を落とした。
城は磨石山の山頂にあり、主郭付近は南北に曲輪が並び、そこから西の尾根にも曲輪がある。
笹が生い茂っている部分も多くあまり明瞭ではないが、曲輪には低土塁が部分的に残っている。
県道25号線から阿用小学校を目指す。小学校の南側の道路を東へ入り蓮花寺へ通じる車道を登って行くと途中で「とぎし城」(阿用城)へ通じる分岐点に到達する。それより奥へは駐車スペースがないので分岐点に車を置いて行くのが良い。
最寄り駅(直線距離)