築城年代は定かではないが熊野氏によって築かれたと云われる。尼子十旗の一つ。
永録6年(1563年)毛利元就が三刀屋城主三刀屋氏、三沢城主三沢氏などを率いて熊野城に押し寄せたが、熊野氏はこれを退けた。しかし、永禄9年(1566年)尼子氏の本城富田城が開城したため、熊野城主熊野久忠も毛利氏に降った。
富田城が毛利氏の属城になった後、富田城を預かっていた天野隆重は荷が重すぎると、毛利元就の四男毛利元秋を富田城主に迎え、自身は熊野城に退いて元秋を補佐した。
熊野城は標高280mの要害山山頂に築かれている。
要害山は山頂から南と東に尾根が展開しており、熊野城もこの尾根に階段状に曲輪を展開している。東麓には「土居成」と呼ばれる屋敷地があり熊野氏の居館があった所とされている。また西麓にも「城屋敷」という地があり天野氏の屋敷跡と伝えられる。
現在山は中腹から上が酷く荒れており、密集した竹藪をかき分け何とか山頂の主郭に至ったものの、城の遺構を詳しく見て回るような状況ではなかった。東尾根から登ったので、こちらからは階段状になった曲輪群を確認できたが、南尾根に展開する曲輪群は確認していない。東側の中腹から麓近くまで非常に細かな階段状の段が展開している。