嘉元2年(1304年)に三沢為長によって築かれたと云われる。 三沢氏は信濃豪族で木曾義仲の後裔あるいは片切氏(片桐)の分流飯島氏とする説がある。 本丸の東屋にある三沢氏の歴代当主では、後者の飯島氏を採用している。
信濃国飯島城主飯島為光は承久3年(1221年)の承久の乱で戦功を挙げ、出雲国三沢郷の新補地頭を賜った。その後、為長がはじめて三沢に来住し、三沢氏を名乗り三沢城を築いたという。
三沢氏はタタラ製鉄などで地盤を固め、為時のときに布広城を築き、信濃守為忠は横田荘へ進出、永正6年(1509年)遠江守為忠のときに藤ヶ瀬城を築いて居城を三沢から移した。しかし、享禄4年(1531年)三沢為国のとき尼子氏が背後の「桶ヶ嶺」から攻められ藤ヶ瀬城は落城、三沢氏は尼子氏に降った。
天文8年(1539年)尼子晴久が安芸国吉田郡山の毛利氏を攻めた際には、三沢為幸が従軍し、首級十三首をあげる活躍をしたが元就の馬廻から射出された矢を七本受け、元就家臣井上七郎に討ち取られた。
為幸が討死したとき嫡子為清はわずか四歳であったが、天文10年(1541年)大内義隆が尼子の富田城を攻めたときには他の出雲の国人衆と同様に大内氏に従った。しかし、富田城攻城戦のさなか、三沢氏は大内氏に降っていた出雲の国人衆と大内氏を裏切って再び尼子方となり、大内軍は敗走した。
大内義隆が陶晴賢に討たれ、その陶晴賢も毛利元就に討たれ大内氏が滅亡すると、毛利元就は尼子領へ侵攻した。三沢為清・為虎父子は毛利氏に降り、尼子氏が滅んだ後に尼子再興軍が蜂起した際も毛利氏に従って各地を転戦した。
天正17年(1589年)三沢為虎は三沢領を没収され毛利輝元に幽閉された。その後、釈放されて長門国厚狭郡に一万石の所領が与えられた。関ヶ原合戦後も毛利氏に属し、毛利秀元を当主とする長府藩が立藩されると付家老として二千七百石が与えられ、三沢氏は家老として代々続いた。
三沢城は標高418.5mの要害山山頂に築かれている。
主郭部は山頂の地形に沿って南北に曲輪が連なる。 中央の堀切を挟んで南が本丸、北が鳥居丸と伝えられる。 本丸は低い土塁状の高まりが一部に残るものの明確ではなく、南北に連なる平坦面のみである。一方鳥居丸は堀切に面した南端が「諏訪社壇」と呼ばれる櫓台状の高まりがあり、井戸も残る。三沢氏は信濃国を出自とするので諏訪社を祀っていたものであろう。
本丸から七曲を経て東へ降りた所にあるのが二の丸で、ここの虎口は石垣によって固められ大手と伝えられる。ここから北へ山腹を移動すると、十兵衛担(成)があり、その先に水の手といわれる三沢池がある。
十兵衛担は東へ張り出した尾根にある曲輪であるが、西端は堀切になり、それに面してコの字に土塁の残る小郭が付いている。曲輪としては小さく烽火などの施設跡であろうか。東端部は土塁と堀切によって遮断している。
登山口の駐車場から少し降った所に「成田館」と「成田砦」と標識が出ている。成田館は畑となっている所で、以前はここに屋敷があったが火災によって焼失し、畑となったという。由緒などは不明なようで砦跡とされる丘陵も自然地形で、堀切などの遺構は見あたらない。
三沢神社近くの松雲山蔭凉寺は三沢氏の滅罪寺であった。
三沢小学校が南西に進んだ所に四日市の集落があり、ここに大きな看板が建てられている。ここから車道が山腹まで通じ、登山道入口に駐車場がある。
登山口から直ぐに大手石垣があり、簡単に本丸まで登ることができる。
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